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COLONNE DE KIYONDO 62~

***2017年9月2日***              No70

 

 

 

          「オヤジの事」

 

 

1955年頃の夕方、オヤジは、私を背中に背負ったオフクロと、上野の

西郷さんの銅像の前のベンチで長い間話をしていた様です。

 

東京中を、ボヘミアンの様に彷徨い続け最後に”西郷さん”にたどり

着いたのです。

 

「お前は麹町の家へ帰れ」と、オヤジは何回も云った様です。

するとオフクロは「そうですか、それでは・・・。」と行きかけると

オヤジはまた「おい、チョット待て!」と云う。

これの繰り返しである。

最後は、親子3人 オヤジの妹の住んでいる大宮に行ったのです。

 

そして7年前、オヤジは大宮で死んだのです。

 

大宮でも10回程引越しをしました。大宮市内で桜木町1丁目から

4丁目にと、やはりボヘミアンの様でした。

 

私が中学2年の時、桜木町から東口の高鼻町へと引越してやっと

落ち着いたのです。

 

大宮に来てから3~4年オヤジは路店で靴を売ったり、小学校の庭で

ヒヨコやヨーヨーなども売り、私はいつもオヤジに付いて行き、

サクラなどもしました。

ある時、日雇いの斡旋で役所に行った時「君は大学も出ているのに

なぜこんな事をやっているんだ?」と云われたようです。

その後、砂利屋に就職して、生活は安定してきました。又、オリンピック景気で砂利屋は良くなり、根は頭のキレるオヤジは独立して高鼻町に

小さな家を買う事ができました。

その頃私には年の離れた妹ができたのです。

 

その後、私は画家を志し、美大生の頃オヤジの砂利屋は倒産しました。

私はオヤジに「好きな事をやった方がいいよ」と云っていました。

 

そしてオヤジは骨董屋になりました。書画屋です。若い頃から文字を書くのが好きで、小説家になりたかったようです。 市ではある事ない事

好きな事を云って、軸物を振っていて仲間には重宝された様でした。

私もその頃からオヤジを送り迎えしながら、昼に行われる道具の市で

モデルになるようなものを買い求めたものです。

血とは恐ろしいもので、似ているのです。オヤジがいいと思う物は、

私もとても良いと思うのです。

 

オヤジが他界してから、とても彼の気持ちがわかる様になりました。

 と云うよりも、私の中の同じ血がどんどんと強くなってきている

のでしょう。昔から言われる様に”歴史は繰り返す”様に思います。

最近、私の中にオヤジがのり移った様にも思えるのです。

これからの人生、オヤジの知恵を貸してもらえる様で、力強く思って

おります。

 

 

                          小澤清人

 

 

        「2007年 父」  F120号

©小澤清人

 

 

 

           「オフクロの事」

 

 

1954年、親子3人福生のオフクロのおばの家に何ヵ月かやっかいに

なったらしい。

 

毎日オフクロは赤ん坊の私を背負い、となり町まで線路の上を歩いて

買い物に行くのです。私の記憶では、オフクロの背中の首のつけ根に

ある1cm程のホクロが思い浮かび、私の手には菓子屋で買って

もらったウェハースの鬼の面がにぎられている。

 

ある日、いつもの様に線路の上を歩いていると、後ろから電車が来て

危うくひかれるところだった様です。都会育ちのオフクロは単線なる

ものを知らなかった様で、もしひかれていたら生活苦で親子心中を

したのだと思われたでしょう。

 

私には、本当は2つ上に兄が、又7つ下に弟がいるはずでした。

でも二人共1週間で亡くなりました。

私は14才になるまで、一人っ子の様にオフクロの愛情に包まれながら育ちました。その後、妹が生まれる事となり、オフクロを取られるのではないかと、とても悲しい思いをしました。生まれてみると妹は

とても可愛く、今となっては独り身の私はオフクロと共に妹に

とても世話になっております。

 

余談ですが、妹は二人の女の子をを生み、長女の紅子は今

日本画家をしております。これから数々の苦労が待ち受けていると

思われます。

昨日、夕飯の時オフクロが突然「紅子、お金はあるのかい?なかったらおばあちゃんが少しあげるよ」と云いました。私はふと紅子の顔を

見ると「おばあちゃん大丈夫だよ、ありがとう!」と彼女は言うの

でした。

 

妹は、とてもオフクロに似てきました。彼女の紅子を見る目は、私を見るオフクロの目と同じなのです。

福生であの時、親子心中にならなかった事にとても感謝しているのです

 

 

                       小澤清人

 

 

        「2007年 母」  F120号

©小澤清人

       「私のルナ・パーク」     F150号

©小澤清人

***2017年6月19日***              No69

 

 

 

        「吉田キミコ氏個展の事」

 

2017年5月26日、個展の招待をいただき 原宿表参道のリビーナに

4時頃到着した。

会場に入ると、当時のカフェ”宵待草”のスタッフ、弟子、友人など

なつかしい顔ぶれがいっぱいである。

 

キミコ氏ならではの展示、40年ちかくの彼女の人生がそこに

ちりばめられ、多少なりとも関わらせてもらった私は当時の世界に

ひきもどされる様でした。

 

小林亜星先生、早苗さんご夫妻も来場され、久しぶりに当時の楽しい

時を思い出し語らいました。

 

今、我が会でお世話になっているパジコの木村進社長父子も

吉田キミコ氏とは、私よりも昔からの親友である。

いつもの温かい表情で私をなごませてくれます。

 

人形屋佐吉氏は、キミコ氏にとって私に云わせると”モロハノヤイバ”

の感がある。美意識のあるところで共鳴しあっているのであろう。

 

弥生美術館の中村圭子氏がかけつけてくれ、久しぶりに話をしたが

今年の本展の事も館長さんにヨロシク伝えてくださいと、とっさに

服部聖子氏の名前が出ず”アレ”といってしまい、感のキイた

中村圭子氏は”アレにですネ。”とニヤリと答えてくれた。

 

ちょっと遅れて我が会の有賀忍氏が来場してくれ、ひととおり会場を

見て私に「アナタがいたからこの展覧会はできたのだよ」と

”コロシモンク”を云ってくれた。

 

吉田キミコ氏の人生にカンパイ!

 

 

                       小澤清人

 

***2017年5月19日***           No68

 

 

 

 

           「 薔薇の事 」

 

 

昨日、薔薇を頂いた

ピエール・ド・ロンサールである。

 

庭から切り終えたばかりの七分咲の可愛らしい娘達である。

 

やや、花身の色の淡いもので、花瓶に活けて今朝見ると

自然とそれぞれの花達の立ち位置が決まり、絵になっているのです。

 

いつもの事ですが、さっそく描いてみようと思うのですが、

一年ぶりで何となく躊躇してしまい、スケッチにしようか?、

油彩にしようか?、と迷って1日~2日とすぐ過ぎてしまいます。

そして花達は成長が早く、すぐに枯れてしまうのです。

どうしよう・・・早く描かなければ、と思うのは毎年同じ事なのです。

 

いつも一枚の絵が完成する頃には花瓶に活け込まれた薔薇は

ドライフラワーと化しているのです。

 

あ! 思い出してみると若い頃、白銅製のゴルフバックを模った

お気に入りの花瓶に薔薇のドライフラワーを入れて

よく描いたものである。題名は ”ゴルフバックのドライフラワー”

と記憶している。

30年も前の事で、今思うと生の薔薇を描くよりは、とても

楽だったように思う。当時の私にとって苦肉の策だった様にも

思われる。

 

 

                       小澤清人

 

 

 

***2017年 3月3日***           No67

 

 

 

           「 刺青の事 」

 

40年前、刺青の絵を描いた。

 

それは、小松崎邦雄先生が”花の衣”と云う金髪の西洋婦人が、

唐獅子牡丹の背中いっぱいの総刺青で、こちらを振り返っているという図の絵で、浦和の会館の展示会場で観たのである。

 

それから一年をかけ、夢中で80号の刺青の絵を何枚か描いた。

それをその頃所属していた美術団体に出品したいと先生に云うと、

ストップがかかった。当時としては当たり前の事の様である。

 

私も先生には、刺青を描くのは私が古伊万里の”赤絵”の絵付けの焼き物が好きだから、女体に絵付けをすれば”刺青”になると、わけのわからない言い訳をぶつけて先生をこまらせたものだった。

 

「蝶」と題した女体に蛇と牡丹の刺青を施した立像の絵を、当時

出版された裸婦像ばかりの画集に掲載された。画集を監修した

福田和彦先生の評で 

-悪くはないが、手と足の表現が未完成であるー

と評された。

当時は納得がいかなかったが、今は十分に納得がいくのである。

 

今回、もう一度刺青の絵を描きたいと思い、描き始めている。

40年の時間の流れの中で、絵に対する自分の思いというのは

そう変わらないのかもしれない。

 

 

 

                      小澤清人                     

 

 

 

***2016年 12月10日***            No66

 

 

 

          「有竹重治氏の事」

 

 

昨日、早稲田 鶴巻町にある”オールドタイムス”に行った。

アンティークのリストウォッチを2本、ベルトが駄目になったので

変えてもらう為、オーナーの小原氏を訪ねたのである。

 

1本は普段している1950年代の”BULOVA(ブローバ)”で

もう1本は1920年代の銀製のROLEX(ロレックス)である。

これは私のお気に入りの物で、25年程前ロンドンの

アンティーククオリアスの有竹氏から縁あって手に入れたものである。

 

その前年”ミスターシゲ”こと有竹氏の店に行った時、「キヨンド、

おれの肖像画を描いてくれないか?」と頼まれ、翌年、完成した

3号の肖像画を持ってクオリアスの有竹氏の店に行くと、とても

気に入ってくれ、「おれは現金がないからこれで勘弁してくれ」

と云って1920年代の銀製の小ぶりで可愛いらしいロレックス

のドーバーを店のショーケースから取り出したのである。

私はいっぺんでそれが気に入ってしまい、さすが、有竹氏は

プロのディーラーだな、と再認識させられた記憶がある。

 

オールドタイムスの店に入り、小原氏に2本のリストウォッチを

渡し、ベルトを交換してもらっていると、「有竹氏が10月に

お亡くなりになったのを清人さんご存知ですか?」と小原氏が

私に云った。

 

今、まさにベルト交換をしてもらっている銀製のロレックスの

ドーバーが有竹氏の訃報を私に知らせたのである。

 

 

                         小澤清人

 

 

 

***2016年  11月19日***           No65

 

 

 

            「講演の事」

 

 

今、坂出に向かう新幹線の中・・・・・・今もって何を話したらよいやら、

思い惑っている。よからぬ事を口ばしり、石が飛んできて壇上のつゆと消えるかもしれない・・・・・などと柄にもない事を考えています。

坂出に着いて皆さんの顔を見れば落ち着くのではないかと希望的な見方もしている。

 

坂出と我が会(私)との付き合いは長いもので30年になる。

瀬戸大橋ができるに際して坂出市が四国の玄関口になるという事で

坂出市美術館が造られ、色々な縁があって、私は30年間出張して

今に至っている。

 

考えてみると、様々な事が頭によみがえってくる。

昨日も、昔 坂出張でお世話になった役所の方の訃報が我が家に

送られてきて、良くして頂いた方がまた一人・・・という思いである。

 

もうすぐ名古屋駅に到着する。

 

今回の講演は坂出市長の依頼によるものである。

市長とは長い間のご縁があり、今は公私共にとてもお世話に

なっている。

出会いは、私が坂出出張の初めの頃で、坂出展初日会場、贈賞式の前に”メンズクラブ”の表紙から飛び出て来たような、ピンクのボタンダウンのシャツに金ボタンの紺のブレザーに身をかため、バッチリきめたアイビーカットのピカピカの姿で私の目の前に現れ「綾です」と大きな文字で 綾宏 と印刷された名刺を出されたのです。私も挨拶を交わし

とてもビックリしました。それが綾氏との初めての出会いでした。

その時、”こういう議員さんもいるんだなぁ~”と思い何となく私は

好感を持った様でした。

 

次に10年以上経った頃、坂出に出張した夜の食事会で坂出市長が来られるという事で、私はちょっと緊張していました。

席上”やはりあの時のメンズクラブだ”と思い、「前にもお会いした事がありますよね」と云うと、何となく向こうを向いて知らんぷりをするのです。いたずら小僧の少年の様でした。酒を飲み打ち解けてくると、いたずら小僧の少年は「黒のダブルに金魚の柄のアロハを着たトッポイ男に知り合いはいない」とぬけぬけとぬかしたものでした。

私としては”自分だって似たようなものではないか・・・?”と綾氏を見返してみた。

 

 今、坂出からの帰途、マリンライナー46号の中

車窓からは素晴らしい瀬戸内海の日没の風景が広がって行く。

 

 

                         小澤清人

 

 

 

***2016年 11月19日***            No64

 

 

 

 

            「本展の事」

 

 

第42回 現代童画会本展が、11月15日に終了する事ができた。

 

私は今回5点の西洋人形の絵と、30年前に創ったKIYONDOLLを

出品した。

絵はシルクサテンに油彩で描いたものでモデルは私の今までの

コレクションのなかの物で、ブリュー3体、ゴーティエ2体である。

今さら、昔創った人形を出品したのは、我が会で立体を立ち上げて

何年か経つからである。平面が主である我が会が”これからの立体”を

意識した動きで、これから前途多難ではあるが、私なりの立体表現の

見本を示すつもりもありました。裏目に出るかもしれません、やってみるしかないので出品したのですが、思いの外(絵よりも?)評判を

とり、気を良くしております。

 

私は人形の材料が体に合わなくてドクターストップがかかり、人形制作を断念したいきさつがありますが、今回我が会に出品した事で、ふんぎりがついた様です。

自己の絵と人形を客観的に見る事で、これからはより自己の思いで

絵画制作に打ち込める気がします。

 

 

 

                        小澤清人

 

 

 

***2016年 10月10日***            No63

 

 

 

         「塗師祥一郎先生の事」

 

 

先月の末 朝早く、吉田武功氏から

「今、先生が亡くなられた」と塗師先生の訃報の電話が入った。

 

私が初めて先生のお宅に、モリエールの木炭デッサンを持って

教えを請いに伺ったのは、高校2年生の時でした。

 

それから、30才になるまで先生のお宅に行き、不詳の弟子として

色々とお世話になり、迷惑もおかけしました。

 

ある時、売れっ子の先生は、アトリエで絵を描き、先輩と私は

「キミ達、僕が眠らない様に後ろで酒を飲みながら居てくれないか?」

と云われ、先輩と私はよくアトリエの後ろのソファーで

先生が描くのを見ながら酒を飲んだものでした。

 

それから20年ぐらい後に父がオークションで「先生の絵を落とした」と私に見せたのです。

それは「野佛」(のぼとけ)と題した8号の絵で、

なんと先生のアトリエで先輩と二人で酒を飲みながら見ていた時に

先生が描いていた作品でした。

私は父からその作品を譲ってもらい、去年先生に新しい額とシールをお願いしたいと依頼すると、快く先生は受けてくれました。

 

それから一年足らずで先生はお亡くなりになりました。

 

私に云わせると、戦国大名の様な方で、刀折れ矢尽きて

見事に他界していった・・・先生は最期にまた一つ

人生というものを私に教えてくれたのです。

 

 

                       小澤清人

 

 

 

 

「野 佛」  F8号           小澤清人所蔵
「野 佛」  F8号           小澤清人所蔵

***2016年 6月24日***            No62

 

 

          「アナベルの事」

 

 

 

今年も庭にアナベルが咲いている。

 

 

今や満開である。

 

だけど、何故か描く気にならない。

ここ十年ぐらい薔薇が終る頃、

アナベルが咲き、壺に投げ入れ

描いたものである。

なぜだろうか?

昨年の今頃から白いシルクサテンの上に油彩で描くようになった。

その画面のせいかもしれない。

私にとってこの画面とアナベルが合わない様な気がするのです。

絹であっても、やや色が付いた画面だと、真白い毬の様なアナベルの

花は浮き立つのだが、どうも白い光沢のあるシルクサテンとは、

相性が合わないようだ。

無理して描くのをやめて今に至っている。

 

若い頃は、いたたまれなくなり無理しても描いたのだろうが、

今となっては描ける様になるまで、ジッと待っているのが賢明だと

思う様になっている。

「待つ」と云うのも、充実した絵を描くためには必要な事のように

今は思うようになっている。

でも、自分に対する言い訳のような気もしている。

 

そんなことを思いながら今は

メインクーンの猫の絵を描き進めている。

 

 

                        小澤清人

 

 

©小澤清人                               画像をクリックしますと拡大表示されます