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COLONNE DE KIYONDO 62~

***2018年11月6日***             No80

 

 

 

         「夢遊病?の事」

 

 

 

濃紺の天中に満月がある。

5才の私は、氷川参道の家を出て、大宮駅に向かってふらふらと

歩いて行く。

本当は西口の”どぶ板横丁”の中程にある「玉屋」と云う酒場にいる

母親の所に行きたいのだが、子供の私には長い踏み切りを渡って

西口に行くことはできないのです。

仕方がないので、駅前の露店で靴を売っている父親のところへ行く

途中なのです。

参道から、駅までの道中は細くダラダラと、暗い筒の中を行く様です。

駅に近付くと、街燈の明かりでだんだんと明るくなってきて、

人が行き来して、賑やかになってきます。

私は、父親に叱られると思い、カーバイトの臭いを嗅ぎながら

佇んでいると、義伯父の正治おじさんが「清人じゃないか!」と

私に気が付きました。

私はもう涙で顔をぐしゃぐしゃにして大声で泣き叫ばずには

いられませんでした。

 

 

                       小澤清人

 

 

 

***2018年6月***                No79

 

 

 

         「画家 小澤清人の事」

 

 

我が会の仲間から先年、来年の本展の特別展示を私がやる様にと

云われた。

しかしながら、今までの特別展の流れからすると、私は会の出品作以外

には私の道楽人生の生き様しかないのです。

よくもまぁ今まで生き延びて来られたなぁと云う実感なのです。

 

それでいいのならさせてもらいましょうか・・・

と云う事で、7年程前から私のスタッフに立ち上げてもらった

ホームページを通して書いて来た”私の思い”などの文章も含めた

画集を作ってみたいと思い立ったのです。

すると、今作らないと一生できないな・・・とも思い、せっかちな

私は次の日には会の嵐柴氏に相談する事にしたのです。

良い事に我が会は、三位一体でできているので、プロの印刷関係者、

デザイナーなどが揃っているので、心配はありません。

嵐柴氏はすぐにOKしてくれて・・・、しかし今は、あまりにも

私がうるさいので、チョット引き受けたのを後悔しているかも

しれません。

そんなこんなで今は二度目の校正に入るところに来ています。

嵐柴氏は先日、目の手術の為一週間程入院されていましたが、

退院早々に私の画集の校正をするはめになったのです。

何とも気の毒な事と思っております。

 

本日は企画委員会が事務所で行われ、昨日出来上がった

嵐柴氏制作による画集の宣伝チラシを企画委員の仲間に見せると

案の定散々イヤミを云われました。

やはり絵描きは顔を売るのではなく、絵を売るのだと、昔

塗師先生に云われましたが、それは本当の事の様です。

 

何はともあれ、6月22日私の誕生日に画集は完成する予定です。

 

 

 

                       小澤清人

 

 

 

 

***2018年4月9日***               No78

 

 

 

            「赫火輪の事」

 

 

北九州、門司の朝倉三心先生と知り合いになったのは、25年程前の事

である。

その頃、私の叔母の友人が、神田須田町で高級駄菓子の店を開いており

その店のショウウィンドーに掛けてあった、私の「招福猫児」の版画が

先生の目にとまったのが縁である。

先生は、月に一度程上京して神田の出版社と雑誌の打ち合わせをする

様で、たまたま私の版画を目にしたのである。

先生が上京した折にすずらん通りの五十番で初めてお会いした時、

「あなたは80才の容ぼうですね」と云われ、何と答えてよいやら

戸惑った記憶がある。

その後、人物や花の絵を頼まれ、私の好んで使う赤と金の色を使用した絵を多く買って頂きました。

そのうち、先生から「太陽の図」を描いて下さいと云われ、訳がわからず無理して描いてみました。送ってみると「これでいいです」と

次々と依頼され、描いているうちに私もだんだんと、この方が良いと云う”絶対バランス”の様なものがわかってきた様で、おもしろくなってきました。

太陽は生命の源の様なもので、生き物は太陽がなければ生きられない

エネルギーそのものなのである。

太陽を絵にする事はほとんど不可能である。しかし、絵に描いた太陽を

より本物のイメージに近づける事で良い”赫火輪”の絵を創り上げる事

ができると信じている。

 

朝倉先生が他界された今も、私は少しずつ赫火輪を描き続けている。

 

 

 

                           小澤清人

 

 

 

それぞれをクリックして頂くと拡大表示されます         ©小澤清人

***2018年3月1日***               No77

 

 

 

          「ハイドパークの月の事」

 

 

ここロンドンの地下鉄、ランカスターゲート駅を降り、ハイドパーク

沿いのベイスウォーター通りを歩き、パブ”スワン”を超すと間もなく

常宿のコロンビアホテルに到着する。

 

昨日ロンドンに着き、早朝3時に目が覚め、長い薔薇模様のカーテンを

開けると、バルコニー越しに深いコバルトブルーの空に冴えた

ハイドパークの月が天中に浮かんでいた。

グリーンのオーバーコートにサーモンピンクの厚手のマフラーを

首に巻き付け、ショルダーバックを袈裟がけに、手袋の手には

懐中電灯を持ち、ベイスウォーター通りで黒いタクシーを待つ。

「Bermondsey antique market please」と運転手に告げる。

「ok」すぐに出発、早朝のドロボー市にむけて走り出す。

金曜日、暗いうちから始まるバーマンジーの市に行くのです。

 

日が昇って明るくなる頃には良い物はもう無いのである。

もっとも、暗いうち懐中電灯をあてながら目を凝らして見る物は、

明るくなってよく見ると失敗も多いのである。

 

今朝はアールヌーボーのスプーン6本と、ガーネットの指環2つ、

ボロボロの熊1匹を手に入れた。ボロボロの熊は明るくなってみても

それなりに良かった様です。

この市は、私にとって極上の物はあまりないが、中で掘り出し物がよくあるのです。前の年などはプルシャンブル―の人形用の乳母車を買い

日本に送るのに苦労した思い出があります。

 

7時頃にはもう明るくなり、物が色褪せて見える様です。

気持ちも落ち着き、後は近くの食堂に入ってベーコンエッグとカリカリに焼いた薄切りの食パンにバターを塗った食事をコーヒーで

流し込みます。その時に、今買ったばかりの品物をもう一度吟味するのです。この時に買ったアールヌーボーのスプーンは、あまりきれいでは

なかったのだけれども、使用されてなく、1902年の刻印のある

イギリスの代表的なヌーボーのデザインで、ホテルに戻り手入れを

してみると、ほとんど新品で完品であったのです。

バーマンジーのアンティークマーケットは運が良いと良い品物に

巡り合える事が多い様です。

 

日が差して来る頃、私はベイスウォーター通りのハイドパークに面した

コロンビアホテルに戻るのですが、バルコニーから見る空は鉛色に

変化しているのです。

そして雨が・・・。

これが冬のロンドンの空模様なのである。

 

                           小澤清人

 

 

 

 

***2018年1月15日***              No76

 

 

 

          「大宮機関區の事」

 

 

私が小さい頃、大宮は国鉄の町であった。

小学校でも、組の半数近くの家は、国鉄職員だった様な気がする。

休日は、母に連れられ、東京の祖母の家に行く時、大宮を出発する

京浜東北線の車窓から長いレンガ造りの大宮機関區と書かれた

車庫が見えるのである。

 

大宮に新幹線が通る様になり、この大宮機関區は近いうちに取り壊されることになった。

私としてはとても残念に思い、絵に残す事にした。

当時私は佐伯祐三に心酔しており、古いレンガ造りの風情のある建物

等に惹かれ、よく描きに行っていたのです。旧都庁の建物や新橋の

ガード下などです。

 

いざ大宮機関區を描くとなると、線路の上で描く事はできず、大変苦労

しました。大宮東口の方から見るのですが、高い塀に阻まれて機関區は

よく見えないのです。仕方なく、当時お世話になっていた写真家の

小暮親平先生にお頼みして、機関區の全体を写真におさめてもらい

それをもとに描き進める事ができたのです。写真自体が巧みに撮られているので、絵にするのに大変助かりました。

 

しかしながら日本人は歴史的建造物をいとも簡単に壊してしまうものの

様です。

 

今、私の描いた”大宮機関區”は、母校の桜木小学校の玄関アプローチにかけてあります。

 

                        小澤清人

 

 

 

***2018年1月7日***               No75

 

 

 

           「お浜さんの事」

 

 

お浜さんは、私の父方の祖母である。

 

幼い頃私は、この祖母が大嫌いであった。子供心に小意地が悪く、

感情的な女性に思えたのです。

私の母に云わせると、祖母は赤ん坊の私を抱きながら歌う様に

”憎い嫁から可愛いい孫が ”と云っていたそうである。

今になってみると、江戸弁丸出しで

チョット色気があって、若い頃には

粋ないい女だった様に思う。

晩年は私のアトリエの隣に住む様になり、私の良きモデルとして活躍してくれたのです。

二枚に折れた腰をふりながら買い物カゴをぶら下げてスタスタと歩いて行く姿をよく見かけたものです。

 

ある日、私の友人が祖母につかまり「ちょいとおまえさんはキヨトの

お友だちだろう?あたしに花ムシロを買って来ておくれでないかい」

と云われ、ヘイコウして私のアトリエに逃げる様に入って来た事が

あった。

 

私の祖母、お浜さんは昔の不良少女、チャキチャキの江戸っ子、

明治の女なのです。

 

 

                         小澤清人

 

 

PHOTO BY SEIJI URUSHIBARA©

***2017年12月8日***              No74

 

 

 

          「KIYONDOLLの事」

 

 

私は、人形道楽になった時、よせばいいのに自分で人形を作ってみたいという事になり、色々な人の協力を得て、12体程の私の人形が完成したのです。

男の子6体、女の子6体で兄弟姉妹が3体づつで計12体になるのです

兄はやや凛々しく、弟は頼りなさげで、姉はややきりっとして、妹は

後ろ頭が刈上げです。

 

何とも楽しく夢中で作り始めたのですが、材料で手かぶれ、友人の

医者に診てもらうと「キヨンドこれ続けていると死ぬぞ!」と

云われてしまった。

 

私は今まで絵という平面表現をしていたので、立体であり、つかむ

事ができる3次元の世界、しかも一つ一つ物を作りだす喜びの世界、

私の人形創作の世界が始まろうとしていたので、とてもショックを

受けたのです。

やむなく手術用手袋をして、やりかけた12体のKIYONDOLL

だけは完成させなければと、手をだましだまし、また、彫刻家、

額職人、人形作家などの友人の協力を経て、12体の

KIYONDOLLが完成したのです。

 

私にとって人形作りは、絵を描く以上に楽しい作業ではあるが、

ある面、のめり込む様な危険もはらんでいるような気がする。

材料が体に合わないのが、かえって良かったのかもしれない。

 

絵描きは絵を描いていれば良いのである。

 

 

                      小澤清人

 

 

 

©小澤清人

***2017年11月30日***             No73

 

 

 

          「カフェ宵待草の事」

 

 

 

京王井の頭線の吉祥寺、ひとつ手前の井の頭公園駅 改札を出て

右前の方を見るとカフェ宵待草がある。

何とも大正ロマン風の和洋折衷の雰囲気の店である。

 

初代女店主が、夢二の絵からぬけ出て来た様な、儚げな大正美人で

私は思わず店名を”宵待草”と名付けたのです。

二代目店主と私は、サロンを開き、そこで若い人達に絵の指導を行う

様になり、多くの弟子ができました。

彼らはそれぞれに自分の道に進み、人生を楽しんでいる様です。

 

40年近く過ぎた今、私の関わった宵待草は終わりをつげ、

さみしい様な、懐かしい様な思いでいっぱいです。

絵の事、人形の事、私の人生の多くが長い間カフェ宵待草に関わって

きたのです。

 

絵描きにとって、自分が関わって来た時代は、とても貴重なものだと

思います。云いかえれば、時代がものを表現させるのだとも云えます。

絵描きにとっての時代との出会いは、かけがえのない宝物なのだと

思います。

 

井の頭公園の夜桜

井の頭公園駅前の夏の盆踊り

カフェ宵待草での蚤の市

 

色々な事が頭の中によみがえってくるのです。

私は、カフェ宵待草を思いながら

又新たな世界を求め続けて行くのだろうと思っている。

 

 

                         小澤清人

 

©小澤清人

***2017年11月27日***         No72

 

 

 

          「小林亜星氏の事」

 

 

2008年の正月、久しぶりにカフェ”宵待草”に亜星先生と早苗夫人が

来てくれた。

 

私は去年の本展に、両親の肖像を描いて発表したので、ある意味で人物はこれまでかと云う思いでいっぱいでした。

自分という人間をこの世に送り込んでくれた父母は、モデルとしては

原点であり、私としても今しか描けないという思いでいっぱいだったのです。

絵が完成し本展も無事終わると、何となくフヌケの様な自分が

あるのです。

 

早苗夫人は、コーヒーを飲みながら「キヨンドさん、元気ないネ、どうしたの?」と云うのを聞きながら、となりでチョット居眠りをしている亜星氏の顔をスケッチしていました。そのうち ”アッそうだ” と思い、

「先生、私のモデルになってください」と頼み込んでいたのです。

早苗夫人は、私が描いているスケッチをチラッと見て

「キヨンドさんが描くならいいわよ!」と云ってくれたのです。

私は、新しい大きくて素晴らしいモデルを見つける事ができたのです。

 

人物画は、その人物の全てを平面に表現しなければなりません。

小林亜星氏は2008年の年明けから私に次なる目標をあたえてくれた

大恩人なのです。

 

 

                          小澤清人

 

 

©小澤清人

***2017年11月9日***             No71

 

 

 

          「𠮷水由里子さんのこと」

 

 

𠮷水由里子氏は、現代童画会の”ゆりの花”のような方である。

 

ある日、成城のお屋敷に絵の事で尋ね、道に迷っていると、向こうから

肩までたらした長い髪をなびかせながら、深紅のセーターを着た洋装の

𠮷水さんが、こちらに向かって迎えに来てくれた。

何とも華やかな雰囲気の方である。

 

彼女が現代童画会に出品し始めて何年か経った頃だったと思う。

立派な門構えのお屋敷の中に入り、石畳の庭を通り過ぎ玄関に入ると、

左手の壁に10号程の淡い赤い花を満開につけた樹木の染物の絵が

品のいい額に収められ、掛けられていた。

一目で彼女の作品だとわかる。

初めて本展で彼女の大作、四季の中に僧侶が立っている”染め絵”を

見た時と同じ感動がその時におきたのです。

不思議な物語性と温かい愛情に包まれた様な、しかも少し装飾美を

加味した様な作品なのです。

 

私は彼女の絵がとても好きである。

 

ご主人との長い印度の生活と彼女が持って生まれた日本美の感性、

それともう一つ、彼女は古い物を愛でる感性を持ち合わせている

ところです。私と同じ骨董趣味なのでしょう、これらがうまく混ざり合って彼女の人生観が絵になって自己表現されているのである。

これはとても素晴らしい事だと私は思っているのです。

 

昨年の春季展の時、彼女が受付にいないのがとても寂しく

思われました。いつも品の良い着物姿の彼女を見ると私はとても安心

するのです。

これからも”良い絵”をたくさん描いて頂き、長いお付き合いを

お願いしたいものである。

 

 

                        小澤清人

 

 

 

 

***2017年9月2日***              No70

 

 

 

          「オヤジの事」

 

 

1955年頃の夕方、オヤジは、私を背中に背負ったオフクロと、上野の

西郷さんの銅像の前のベンチで長い間話をしていた様です。

 

東京中を、ボヘミアンの様に彷徨い続け最後に”西郷さん”にたどり

着いたのです。

 

「お前は麹町の家へ帰れ」と、オヤジは何回も云った様です。

するとオフクロは「そうですか、それでは・・・。」と行きかけると

オヤジはまた「おい、チョット待て!」と云う。

これの繰り返しである。

最後は、親子3人 オヤジの妹の住んでいる大宮に行ったのです。

 

そして7年前、オヤジは大宮で死んだのです。

 

大宮でも10回程引越しをしました。大宮市内で桜木町1丁目から

4丁目にと、やはりボヘミアンの様でした。

 

私が中学2年の時、桜木町から東口の高鼻町へと引越してやっと

落ち着いたのです。

 

大宮に来てから3~4年オヤジは路店で靴を売ったり、小学校の庭で

ヒヨコやヨーヨーなども売り、私はいつもオヤジに付いて行き、

サクラなどもしました。

ある時、日雇いの斡旋で役所に行った時「君は大学も出ているのに

なぜこんな事をやっているんだ?」と云われたようです。

その後、砂利屋に就職して、生活は安定してきました。又、オリンピック景気で砂利屋は良くなり、根は頭のキレるオヤジは独立して高鼻町に

小さな家を買う事ができました。

その頃私には年の離れた妹ができたのです。

 

その後、私は画家を志し、美大生の頃オヤジの砂利屋は倒産しました。

私はオヤジに「好きな事をやった方がいいよ」と云っていました。

 

そしてオヤジは骨董屋になりました。書画屋です。若い頃から文字を書くのが好きで、小説家になりたかったようです。 市ではある事ない事

好きな事を云って、軸物を振っていて仲間には重宝された様でした。

私もその頃からオヤジを送り迎えしながら、昼に行われる道具の市で

モデルになるようなものを買い求めたものです。

血とは恐ろしいもので、似ているのです。オヤジがいいと思う物は、

私もとても良いと思うのです。

 

オヤジが他界してから、とても彼の気持ちがわかる様になりました。

 と云うよりも、私の中の同じ血がどんどんと強くなってきている

のでしょう。昔から言われる様に”歴史は繰り返す”様に思います。

最近、私の中にオヤジがのり移った様にも思えるのです。

これからの人生、オヤジの知恵を貸してもらえる様で、力強く思って

おります。

 

 

                          小澤清人

 

 

        「2007年 父」  F120号

©小澤清人

 

 

 

           「オフクロの事」

 

 

1954年、親子3人福生のオフクロのおばの家に何ヵ月かやっかいに

なったらしい。

 

毎日オフクロは赤ん坊の私を背負い、となり町まで線路の上を歩いて

買い物に行くのです。私の記憶では、オフクロの背中の首のつけ根に

ある1cm程のホクロが思い浮かび、私の手には菓子屋で買って

もらったウェハースの鬼の面がにぎられている。

 

ある日、いつもの様に線路の上を歩いていると、後ろから電車が来て

危うくひかれるところだった様です。都会育ちのオフクロは単線なる

ものを知らなかった様で、もしひかれていたら生活苦で親子心中を

したのだと思われたでしょう。

 

私には、本当は2つ上に兄が、又7つ下に弟がいるはずでした。

でも二人共1週間で亡くなりました。

私は14才になるまで、一人っ子の様にオフクロの愛情に包まれながら育ちました。その後、妹が生まれる事となり、オフクロを取られるのではないかと、とても悲しい思いをしました。生まれてみると妹は

とても可愛く、今となっては独り身の私はオフクロと共に妹に

とても世話になっております。

 

余談ですが、妹は二人の女の子をを生み、長女の紅子は今

日本画家をしております。これから数々の苦労が待ち受けていると

思われます。

昨日、夕飯の時オフクロが突然「紅子、お金はあるのかい?なかったらおばあちゃんが少しあげるよ」と云いました。私はふと紅子の顔を

見ると「おばあちゃん大丈夫だよ、ありがとう!」と彼女は言うの

でした。

 

妹は、とてもオフクロに似てきました。彼女の紅子を見る目は、私を見るオフクロの目と同じなのです。

福生であの時、親子心中にならなかった事にとても感謝しているのです

 

 

                       小澤清人

 

 

        「2007年 母」  F120号

©小澤清人

       「私のルナ・パーク」     F150号

©小澤清人

***2017年6月19日***              No69

 

 

 

        「吉田キミコ氏個展の事」

 

2017年5月26日、個展の招待をいただき 原宿表参道のリビーナに

4時頃到着した。

会場に入ると、当時のカフェ”宵待草”のスタッフ、弟子、友人など

なつかしい顔ぶれがいっぱいである。

 

キミコ氏ならではの展示、40年ちかくの彼女の人生がそこに

ちりばめられ、多少なりとも関わらせてもらった私は当時の世界に

ひきもどされる様でした。

 

小林亜星先生、早苗さんご夫妻も来場され、久しぶりに当時の楽しい

時を思い出し語らいました。

 

今、我が会でお世話になっているパジコの木村進社長父子も

吉田キミコ氏とは、私よりも昔からの親友である。

いつもの温かい表情で私をなごませてくれます。

 

人形屋佐吉氏は、キミコ氏にとって私に云わせると”モロハノヤイバ”

の感がある。美意識のあるところで共鳴しあっているのであろう。

 

弥生美術館の中村圭子氏がかけつけてくれ、久しぶりに話をしたが

今年の本展の事も館長さんにヨロシク伝えてくださいと、とっさに

服部聖子氏の名前が出ず”アレ”といってしまい、感のキイた

中村圭子氏は”アレにですネ。”とニヤリと答えてくれた。

 

ちょっと遅れて我が会の有賀忍氏が来場してくれ、ひととおり会場を

見て私に「アナタがいたからこの展覧会はできたのだよ」と

”コロシモンク”を云ってくれた。

 

吉田キミコ氏の人生にカンパイ!

 

 

                       小澤清人

 

***2017年5月19日***           No68

 

 

 

 

           「 薔薇の事 」

 

 

昨日、薔薇を頂いた

ピエール・ド・ロンサールである。

 

庭から切り終えたばかりの七分咲の可愛らしい娘達である。

 

やや、花身の色の淡いもので、花瓶に活けて今朝見ると

自然とそれぞれの花達の立ち位置が決まり、絵になっているのです。

 

いつもの事ですが、さっそく描いてみようと思うのですが、

一年ぶりで何となく躊躇してしまい、スケッチにしようか?、

油彩にしようか?、と迷って1日~2日とすぐ過ぎてしまいます。

そして花達は成長が早く、すぐに枯れてしまうのです。

どうしよう・・・早く描かなければ、と思うのは毎年同じ事なのです。

 

いつも一枚の絵が完成する頃には花瓶に活け込まれた薔薇は

ドライフラワーと化しているのです。

 

あ! 思い出してみると若い頃、白銅製のゴルフバックを模った

お気に入りの花瓶に薔薇のドライフラワーを入れて

よく描いたものである。題名は ”ゴルフバックのドライフラワー”

と記憶している。

30年も前の事で、今思うと生の薔薇を描くよりは、とても

楽だったように思う。当時の私にとって苦肉の策だった様にも

思われる。

 

 

                       小澤清人

 

 

 

***2017年 3月3日***           No67

 

 

 

           「 刺青の事 」

 

40年前、刺青の絵を描いた。

 

それは、小松崎邦雄先生が”花の衣”と云う金髪の西洋婦人が、

唐獅子牡丹の背中いっぱいの総刺青で、こちらを振り返っているという図の絵で、浦和の会館の展示会場で観たのである。

 

それから一年をかけ、夢中で80号の刺青の絵を何枚か描いた。

それをその頃所属していた美術団体に出品したいと先生に云うと、

ストップがかかった。当時としては当たり前の事の様である。

 

私も先生には、刺青を描くのは私が古伊万里の”赤絵”の絵付けの焼き物が好きだから、女体に絵付けをすれば”刺青”になると、わけのわからない言い訳をぶつけて先生をこまらせたものだった。

 

「蝶」と題した女体に蛇と牡丹の刺青を施した立像の絵を、当時

出版された裸婦像ばかりの画集に掲載された。画集を監修した

福田和彦先生の評で 

-悪くはないが、手と足の表現が未完成であるー

と評された。

当時は納得がいかなかったが、今は十分に納得がいくのである。

 

今回、もう一度刺青の絵を描きたいと思い、描き始めている。

40年の時間の流れの中で、絵に対する自分の思いというのは

そう変わらないのかもしれない。

 

 

 

                      小澤清人                     

 

 

 

***2016年 12月10日***            No66

 

 

 

          「有竹重治氏の事」

 

 

昨日、早稲田 鶴巻町にある”オールドタイムス”に行った。

アンティークのリストウォッチを2本、ベルトが駄目になったので

変えてもらう為、オーナーの小原氏を訪ねたのである。

 

1本は普段している1950年代の”BULOVA(ブローバ)”で

もう1本は1920年代の銀製のROLEX(ロレックス)である。

これは私のお気に入りの物で、25年程前ロンドンの

アンティーククオリアスの有竹氏から縁あって手に入れたものである。

 

その前年”ミスターシゲ”こと有竹氏の店に行った時、「キヨンド、

おれの肖像画を描いてくれないか?」と頼まれ、翌年、完成した

3号の肖像画を持ってクオリアスの有竹氏の店に行くと、とても

気に入ってくれ、「おれは現金がないからこれで勘弁してくれ」

と云って1920年代の銀製の小ぶりで可愛いらしいロレックス

のドーバーを店のショーケースから取り出したのである。

私はいっぺんでそれが気に入ってしまい、さすが、有竹氏は

プロのディーラーだな、と再認識させられた記憶がある。

 

オールドタイムスの店に入り、小原氏に2本のリストウォッチを

渡し、ベルトを交換してもらっていると、「有竹氏が10月に

お亡くなりになったのを清人さんご存知ですか?」と小原氏が

私に云った。

 

今、まさにベルト交換をしてもらっている銀製のロレックスの

ドーバーが有竹氏の訃報を私に知らせたのである。

 

 

                         小澤清人

 

 

 

***2016年  11月19日***           No65

 

 

 

            「講演の事」

 

 

今、坂出に向かう新幹線の中・・・・・・今もって何を話したらよいやら、

思い惑っている。よからぬ事を口ばしり、石が飛んできて壇上のつゆと消えるかもしれない・・・・・などと柄にもない事を考えています。

坂出に着いて皆さんの顔を見れば落ち着くのではないかと希望的な見方もしている。

 

坂出と我が会(私)との付き合いは長いもので30年になる。

瀬戸大橋ができるに際して坂出市が四国の玄関口になるという事で

坂出市美術館が造られ、色々な縁があって、私は30年間出張して

今に至っている。

 

考えてみると、様々な事が頭によみがえってくる。

昨日も、昔 坂出張でお世話になった役所の方の訃報が我が家に

送られてきて、良くして頂いた方がまた一人・・・という思いである。

 

もうすぐ名古屋駅に到着する。

 

今回の講演は坂出市長の依頼によるものである。

市長とは長い間のご縁があり、今は公私共にとてもお世話に

なっている。

出会いは、私が坂出出張の初めの頃で、坂出展初日会場、贈賞式の前に”メンズクラブ”の表紙から飛び出て来たような、ピンクのボタンダウンのシャツに金ボタンの紺のブレザーに身をかため、バッチリきめたアイビーカットのピカピカの姿で私の目の前に現れ「綾です」と大きな文字で 綾宏 と印刷された名刺を出されたのです。私も挨拶を交わし

とてもビックリしました。それが綾氏との初めての出会いでした。

その時、”こういう議員さんもいるんだなぁ~”と思い何となく私は

好感を持った様でした。

 

次に10年以上経った頃、坂出に出張した夜の食事会で坂出市長が来られるという事で、私はちょっと緊張していました。

席上”やはりあの時のメンズクラブだ”と思い、「前にもお会いした事がありますよね」と云うと、何となく向こうを向いて知らんぷりをするのです。いたずら小僧の少年の様でした。酒を飲み打ち解けてくると、いたずら小僧の少年は「黒のダブルに金魚の柄のアロハを着たトッポイ男に知り合いはいない」とぬけぬけとぬかしたものでした。

私としては”自分だって似たようなものではないか・・・?”と綾氏を見返してみた。

 

 今、坂出からの帰途、マリンライナー46号の中

車窓からは素晴らしい瀬戸内海の日没の風景が広がって行く。

 

 

                         小澤清人

 

 

 

***2016年 11月19日***            No64

 

 

 

 

            「本展の事」

 

 

第42回 現代童画会本展が、11月15日に終了する事ができた。

 

私は今回5点の西洋人形の絵と、30年前に創ったKIYONDOLLを

出品した。

絵はシルクサテンに油彩で描いたものでモデルは私の今までの

コレクションのなかの物で、ブリュー3体、ゴーティエ2体である。

今さら、昔創った人形を出品したのは、我が会で立体を立ち上げて

何年か経つからである。平面が主である我が会が”これからの立体”を

意識した動きで、これから前途多難ではあるが、私なりの立体表現の

見本を示すつもりもありました。裏目に出るかもしれません、やってみるしかないので出品したのですが、思いの外(絵よりも?)評判を

とり、気を良くしております。

 

私は人形の材料が体に合わなくてドクターストップがかかり、人形制作を断念したいきさつがありますが、今回我が会に出品した事で、ふんぎりがついた様です。

自己の絵と人形を客観的に見る事で、これからはより自己の思いで

絵画制作に打ち込める気がします。

 

 

 

                        小澤清人

 

 

 

***2016年 10月10日***            No63

 

 

 

         「塗師祥一郎先生の事」

 

 

先月の末 朝早く、吉田武功氏から

「今、先生が亡くなられた」と塗師先生の訃報の電話が入った。

 

私が初めて先生のお宅に、モリエールの木炭デッサンを持って

教えを請いに伺ったのは、高校2年生の時でした。

 

それから、30才になるまで先生のお宅に行き、不詳の弟子として

色々とお世話になり、迷惑もおかけしました。

 

ある時、売れっ子の先生は、アトリエで絵を描き、先輩と私は

「キミ達、僕が眠らない様に後ろで酒を飲みながら居てくれないか?」

と云われ、先輩と私はよくアトリエの後ろのソファーで

先生が描くのを見ながら酒を飲んだものでした。

 

それから20年ぐらい後に父がオークションで「先生の絵を落とした」と私に見せたのです。

それは「野佛」(のぼとけ)と題した8号の絵で、

なんと先生のアトリエで先輩と二人で酒を飲みながら見ていた時に

先生が描いていた作品でした。

私は父からその作品を譲ってもらい、去年先生に新しい額とシールをお願いしたいと依頼すると、快く先生は受けてくれました。

 

それから一年足らずで先生はお亡くなりになりました。

 

私に云わせると、戦国大名の様な方で、刀折れ矢尽きて

見事に他界していった・・・先生は最期にまた一つ

人生というものを私に教えてくれたのです。

 

 

                       小澤清人

 

 

 

 

「野 佛」  F8号           小澤清人所蔵
「野 佛」  F8号           小澤清人所蔵

***2016年 6月24日***            No62

 

 

          「アナベルの事」

 

 

 

今年も庭にアナベルが咲いている。

 

 

今や満開である。

 

だけど、何故か描く気にならない。

ここ十年ぐらい薔薇が終る頃、

アナベルが咲き、壺に投げ入れ

描いたものである。

なぜだろうか?

昨年の今頃から白いシルクサテンの上に油彩で描くようになった。

その画面のせいかもしれない。

私にとってこの画面とアナベルが合わない様な気がするのです。

絹であっても、やや色が付いた画面だと、真白い毬の様なアナベルの

花は浮き立つのだが、どうも白い光沢のあるシルクサテンとは、

相性が合わないようだ。

無理して描くのをやめて今に至っている。

 

若い頃は、いたたまれなくなり無理しても描いたのだろうが、

今となっては描ける様になるまで、ジッと待っているのが賢明だと

思う様になっている。

「待つ」と云うのも、充実した絵を描くためには必要な事のように

今は思うようになっている。

でも、自分に対する言い訳のような気もしている。

 

そんなことを思いながら今は

メインクーンの猫の絵を描き進めている。

 

 

                        小澤清人

 

 

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